「作家さんには「小説で得する人」と「エッセイで損しちゃう人」がいるよね」という話を友人とした。
友人は、ある小説家の大ファンで(一応名前を伏せる)、物語や独特の世界観が好きで小説はほぼ全て読破している。作品が映画化されれば必ず劇場に足を運んだ。ややオタク気質な傾向にあるファンだ。
先日、たまたま本屋に寄ったらその作家の新刊が発売されていた。即購入したそうだ。そして、購入後にその本が小説ではなくエッセイだったことに気付く。友人は、その作家のエッセイを一度も読んだことなかったので良い機会だとページをめくりはじめた。
何ページか読み進めていくうちに自分が怒りを感じていることに気付いた。というか、えらく憤慨していた。そして、
「これは私が読みたかった本ではない!」
と、はっきり思ったそうだ。動物全般と松田龍平を愛する心優しき友人が憤慨することなんて滅多にない。
しかしながら、友人は首をかしげた。その作家の小説は大好きなはずのに、なぜエッセイではこうもイライラしてしまうのか。「私はエッセイという文章を受け付けない頑固な人間なのだろうか」とさえ考えた。真面目な人間なのだ。試しに他の作家のエッセイを読んでみた。ところが、とりたてて憤慨することはなかった。
「───ってことがあったんだけど、どう思う?」と友人は僕に聞いた。僕はちょうど借りていた本を返しに友人宅に寄ったところだった。
僕はこの話を聞きながら、筒井康隆さんの『狂気の沙汰も金次第』という強烈に面白いエッセイ本を思い出していた。この本は、SF作家の筒井さんが新聞のコラム欄に掲載した随筆が書籍化されたものだ。
本文中に「随筆」を定義した文章がある。
随筆とは、心象と事象が交わるところに生じる文である
厳密に言うと、定義したのは筒井さんではなく、筒井さんの原稿を叩き返した出版社の人だけど。なぜそんなことになったのかについては「随筆」という章をぜひ読んでほしいと思う。
心象と事象が交わるところ。
まず「心象」と「事象」の言葉の意味を整理しておきたい。「心象」とは「自分が心で感じたこと」だ。そして「事象」とは「現実の世界で起きたこと」である。随筆とは「現実に起きたこと」に対して「私がどう思ったのか」を書いた文章形式を指す。
ちなみに「随筆」を英訳すると「essay」。エッセイを指す。
かたや「小説」とはなんだろうか。小説を一度も書いたことのない人間が「小説とはなんだろう」と考え出すなんて笑止千万かつ片腹痛しなことこの上ないけど、考えてみたい。考えるところから文章は生まれるはずだ。
小説とはつまり物語だ(と思う)。小説家の小川洋子さんが書いた『物語の役割』という本にこんな文章がある(小川洋子さんは大好きな作家の一人だ。『海』が特に好きだ。『ことり』も良い)。
たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っている
「随筆」とは随分と毛色が違う。犬種でいうとセントバーナード犬と秋田犬くらい違う。毛並みからして違う。
現実を自分が受け入れやすい形に変形させること。随筆が「現実に対して私はこう思う」だとすれば、小説は「私はこういう現実を生きている。他の人が生きてる現実とは違うかもしれないけれど」ということになる。嫌なものをあえて書く必要がないし、その形をカスタマイズすることさえ可能な形式なのだと思う。「フィクション」という丁度良い言葉もある。
「随筆」と「小説」の違いを整理できたところで当初の話題に戻りたい。「これは私が読みたかった本ではない!」と友人が憤慨した理由だ。友人は大好きな作家のエッセイを読んでそう感じた。
僕はこう思う。
エッセイは容れ物の性質上、作家の性格があぶり出されやすい危険な文章形式である。否定的であるにせよ肯定的であるにせよ世界に対する作家の態度を書かざる得ない。だから、作家自身の人間的な実像が時にくっきり見えてしまう。
早い話が、エッセイを読んでイライラしたということは「この人とは友達にはなれない!」と感じたわけだ。
「好きな人と過ごすこと」と「生活を共にすること」が全く違うこと同じかもしれない。
いくら好きな作家といえどエッセイまで好きになれるかは分からない。むしろ作家が見えすぎて嫌いになる可能性すらあり得る。その日、友人との話のひとまずの結論として「作家さんには「小説で得する人」と「エッセイで損をする人」がいるのかもしれないね」という話になったのである。

- 作者:筒井 康隆
- 発売日: 1976/11/02
- メディア: 文庫

- 作者:小川 洋子
- 発売日: 2007/02/01
- メディア: 新書

- 作者:小川洋子
- 発売日: 2016/01/07
- メディア: ペーパーバック