傷つくのは、個人の問題なのか?

勅使川原真衣さんの『職場で傷つく』を読んでいる。読み進めるうちに、自分の経験を振り返ったり、関連する新聞記事や論文に目を通したりするようになった。

今の社会は能力主義が中心だ。できる人が多くを得て、できない人の配分が少なくなる。これは、社会の限られた資源を納得感のある形で分配するための仕組みだ。それが能力主義だ。でも、その結果、傷ついた人は「能力が足りなかったから仕方ない」と整理され、環境の問題には目が向かなくなる。

たとえば、職場でうまくいかない人がいたとき、「この人は能力が低い」「性格が合わない」といった理由で処理されがちだ。僕自身もそう考えていたし、今でもふとそう思ってしまうことがある。僕自身も、ある時から仕事がしづらくなり、相談しにくくなり、仕事を一人で抱え込むようになった。以前はのびのびと働いていたのに、今では仕事が楽しいと感じることもなくなった。「自分の性格が暗くなったせい」「リーダーシップが足りないせい」と、自分自身の問題だと思い込んでいた。でも、本当にそうなのか。

環境が変われば、人は活躍できたり、できなくなったりする。勅使川原真衣さんの前著『「能力」の生きづらさをほぐす』では、「能力」というものは存在せず、環境との組み合わせによって変化するものだと書かれていた。つまり、僕がうまくいかなくなったのは「能力不足」ではなく、環境との相性が変わったからかもしれない。そう考えようとしても、「それは甘えではないか」という考えが頭をよぎるのだけど。

それでも、環境ではなく個人に責任が求められる構造は変わらない。たとえば、保育園で事故が起きれば「保育士のミス」とされ、「専門性」が欠けていると批判される。慢性的な人手不足や低賃金などの業界全体の問題だったとしても、それを指摘すること自体が「問題のある個人」と見なされ、最終的には排除されてしまう。「専門性」「リーダーシップ」「コミュニケーション能力」──これらの言葉も、個人の資質の問題として片付けるための道具になっているのかもしれない。

『完全主義の類型とストレスとの関連の検討』という論文では、「完全主義の人ほどストレスが多い環境で抑うつになりやすい」という研究がある。「ミスしたくない」「完璧にしないと評価されない」というプレッシャーが強い環境が、そうした考え方を助長してしまうのだ。また、『我が国における感情労働研究と課題』という論文では、職業理念が個人の感情を支配し、それが本人の感情と一致しない場合、精神的な負担となることが指摘されている。組織が感情表現を強く管理すると、従業員は「本来の自分」との乖離を感じ、自己疎外感が増大するという。どこにいても、環境が個人に与える影響は決して小さくない。

「傷つく人が悪い」のではなく、「どうすれば傷つかない職場を作れるか?」を考えるべきなのだと思う。社会福祉の分野にいる僕にとっては、この問いは「障がいを持った人が悪いのではなく、どうすれば障がいがあっても生きづらくない社会を作れるか?」という問いと重なる。そう考えると、僕の今の状況は障がいのある人が置かれている状況と、少し似ているのかもしれない。

能力主義のもとでは、個人が傷ついても「能力が足りなかったから仕方ない」と片付けられる。でも、本当にそうだろうか? 個人の問題として処理することで、環境の問題が見えなくなってしまっているのではないか?

環境の影響を可視化し、調整を試みることでしか、職場の「傷つき」は減らせないのではないか。それが難しいなら、自分がその環境から離れることもまた、一つの選択肢なのかもしれない。